2017/12/30

2017年走り書きメモ

"Constellation #19" 1100 x 270cm / silver spray paint, silver ink, earth, acrylic, chinese ink on canvas / 2017 / installation view at Arts Maebashi (Gumma) photo by Kigure Shinya © Hiraku Suzuki



2017年を振り返れば、ここ十年の中で日本にいる時間が最も長い年だった。1歳から2歳になった娘の成長に、傍で目を見張りつつ、日々お絵かきセッション、絵本、ダンス、散歩やパズルセッションetcをしていたから、というのもある。しかし今年は、娘以外にも、今日本にいるからできた対談とセッションが特に多かった。ライブで一般公開した対話の相手だけでも、淺井裕介(アーティスト)、スガダイロー(音楽家)、ジェイソン・モラン(音楽家)、石川九楊(書家)、村田峰紀(アーティスト)、吉増剛造(詩人)、ハトリミホ(CIBO MATTO)、アブデルカデール・ベンチャマ(アーティスト)、今福龍太(文化人類学者)・・・彼らとドローイングを通して、文字通り手探りで辿っていった。ある境界線のようなもの。その境界線の地中に横たわる未翻訳の領域の鉱脈を発見できたことは大きな学びであった。同時にこの鉱脈があまりにも巨大で多岐にわたっていて、自分がいかに何も知らないかということも知ったが、もちろんそれは希望でもある。来年からも、また自分の手で触れる部分をひとつひとつ掘り出して、作品やプロジェクトの中で輪郭を与えつつ、少しずつ近づいていきたい。

2017年のメモ
1月
淺井裕介くんと対談@NADiff a/p/a/r/t。嬉しい初対面であった。
FIDインターナショナルドローイングコンテストでグランプリ受賞。
大分に10日間滞在。大分市中央通り線地下道における常設パブリックアート作品”点が線の夢を見る” を制作。地下道が極寒でハードな現場でボロボロになったが、温泉に入りながら、多くの人に支えられて、1/21に過去最大のパブリックアート作品が完成した。島田正道くんと記録映像を制作> https://vimeo.com/203550974
展覧会は永戸鉄也さんの個展がよかった。

2月
一人で雪山登山をして死にかけるも、氷の形から新作の着想を得る。
制作に明け暮れる。芸術祭「市原アートxミックス」のための、石とステンレスのふたつの彫刻作品制作で、千葉と行き来する。九十九里浜に宿泊するなど。
昨年山形で行なった吉増剛造さんとのセッションの記録本を作り始める。
展覧会はラスコー洞窟展@国立科学博物館がよかった。ライブはゆるふわギャング@アニエスベー銀座店がよかった。

3月
ポーラ・ミュージアムアネックス(銀座)にてグループ展「繊細と躍動」に出品。秋吉風人、中原一樹というベルリン時代で最も近所だった尊敬する友人のアーティストと一緒。
品川で海洋調査船TARA号に乗る。
大分市で講演。
国立科学博物館で筆石(graptolite)の存在を知り、衝撃を受ける。
千葉県市原市に毎週通って制作と展示の設営。永昌寺トンネルにてワークショップ。10人ほどでトンネルの壁面をフロッタージュする。石を彫って反射板を埋め込むなど。

4月
市原での展示「道路」がオープン。北川フラムさんの「立体が見たい」という言葉に応えるべく、チャレンジした展示であった。
山梨Gallery TRAXにて、グループ展「SIDE CORE -路・線・図」に出品。
熊本市現代美術館にて、グループ展「高橋コレクションの宇宙」に出品。
草月会館にて、スガダイロー、Jason Moran、田中泯のセッションを見る。田中泯さんが凄かった。
翌週、ロームシアター(京都)にてスガダイロー、Jason Moran、僕でセッション。ダイローさんとジェイソンがとにかく凄すぎて、楽しかった。遠藤水城くん、クリスが見に来てくれた。翌日、伊藤存さん、青木陵子さんと寺に行く。
カジワラトシオさんのレコード屋Hitozokuで空間現代のカセットテープを買う。
アーツ前橋で、また田中泯さんの踊りを見る。
娘がシュタイナー保育園に通い始める。家族で千葉を旅行。

5月
東京芸大大学院GA科にて2コマ授業。
島田正道くんと市原の記録映像を制作。
娘を初めて動物園に連れていく。映画「メッセージ」がよかった。

6月
彫刻作品「Warp」を市原湖畔美術館に移動、常設。
砂澤ビッキ展@神奈川県美葉山館がよかった。
吉増剛造さんイベント@NADiff a/p/a/r/t
ニース、アンティーブ、パリに旅行。アニエスのアパートに滞在。ギャラリードゥジュール、アブデルカデール・ベンチャマと打ち合わせ、アニエスのオフィスの壁画描き足し。ピカソとの思い出話など聞く。
ジュリアン・ランゲンドルフとセッション。

7月
ヴェネチア滞在
Palazzo Fortunyの「INTUITION」展がよかった。
7/5 小沢剛さんの依頼で、芸大でドローイングの授業。10年ぶりに取手に行く。
7/14 『Drawing Tube vol.01 Archive』鈴木ヒラク ドローイング・パフォーマンス ゲスト:吉増剛造を刊行。
石川九楊さんと、上野の森美術館にて「文字の起源」をテーマに対談。合計3回お会いする。後に左右社から出版される本には収録されなかったが、「銀」や「光と影の反転」についての話が興味深かった。個人的には、「かく」ことを路上で考え始めた頃から20年近く、石川九楊の書に刺激を受けてきたたけれど、まさか本人と対談することになるとは思ってもいなかった。33歳の年齢差がありながら、正面から向き合ってくれた石川九楊氏に感謝。非常に励みにもなった。
村田峰紀がアトリエに来る。
家族で三浦半島を旅行。

8月
娘の次に手足口病にかかり、二週間ほど苦しむ。
吉増剛造さんから詩が届く。自分の名前が入っている。そして光画、突中描画という言葉をいただく。
8/4 ギャラリーハシモト(東京)にて、村田峰紀とセッション。記録を撮ってくれた杉本くんがよかった。峰紀とは今年数えきれないほど会っている気がする。
家族で大分旅行。現地でアトリエを借りて、制作に励む。娘が2歳になる。
札幌を視察。吉増剛造展@北大が素晴らしかった。
また、市原湖畔美術館のラップミュージアム展がよかった。

9月
札幌国際芸術祭にて、吉増剛造さんと2回目のパフォーマンス。非常に難しかったが、実験として意義はあった。吉増さんから「一番深いところに届いたよ」と言葉をいただいた。同時に「孤独」ということもおっしゃっていた。石狩シーツという詩のタイトル、吉増さんの白いシャツ、その連想から布の繊維と描く行為の関係性について考えた。この問いは、後に今福龍太さんを召喚する。芸術祭は梅田哲也、毛利悠子、堀尾寛太、さわひらき、国松希根太、石川直樹、中崎透、同世代の作家それぞれの作品に心が動いた。余市町にある「フゴッペ洞窟」の洞窟画を見て帰る。
9/7よりアートラボはしもとにて、初のキャンバス作品(11m)を描き始める。自分のかく行為の中に、初めて「織る」とか「編む」という概念が入ってきた。神宮に撮影してもらう。
9/13 ブラジルからアンドレアが来る
9/15 ポーランドからプシャメクとダニエラが来る
9/25 NYから来たハトリミホさんと電話でずっと話していた。NEW OPTIMISMという概念について教えてもらう。その延長でDommuneに出演。宇川さんに10年ぶりに会う。
9/27 ハトリミホさんとKATA(恵比寿)でセッション。

10月
10/19 アーツ前橋にてグループ展「ヒツクリコ ガツクリコ ことばの生まれる場所」。11mのキャンバスをはじめ、平面、リフレクター、映像など久しぶりに大規模なインスタレーションを行う。
高崎のrin art associationにて特別展示。久しぶりにアスファルトのフロッタージュを作品にし、なぞる行為について考えた。
10/21 五島美術館副館長の名児耶明氏、アーツ前橋館長の住友文彦氏と前橋文学館で鼎談。
10/24 Abdelkader Benchammaが来日。空港まで迎えに行き、Tokyo Arts and Spaceまで送る。
10/27 アニエスべー銀座店で、「POINT TO LINE presents Abdbelkader Benchamma」カデールとコラボレーションによる壁画発表。クリスと3名でトーク。10人以上キュレーターが来る。NYからボニー・マランカも来ていた。
初めて娘をコンサートに連れていく。
展覧会は伊藤存さんの個展@ヤーギンズ、安藤忠雄「挑戦」@国立新美術館がよかった。

11月
カデールと国立科学博物館を視察。3週間とにかくカデールと話し、描き、酒を飲み、色んな人に会い、また話し、描き続ける。洞窟の中を二人で旅するような日々。
11/5 ボニーからエーテル・アドナンのテキストをもらう。
11/12 Drawing Tube vol.3 カデールとドローイングトーク@TOKAS
カデールがフランスに帰った翌日から家族で群馬旅行。原田さんにお世話になった。

12月
12/9 今福龍太さんとライブドローイングと対談@アーツ前橋 「舟」と「骨」について。キーワード:石、棒、道の終わり、風、珊瑚、島、多孔質、チューブ、ミメーシス(模倣)、井上有一、宮沢賢治、歌、ベンヤミン、内臓、星座、舞踏、洞窟壁画、舐める、粘膜、放射、収斂、葉、植物、飛沫、石川九楊、墨、影、反転、薄墨色、謎、中上健次、がらんどう、空、鳥、透き通る、透過性、重複、銀色、スピリット、インスピレーション、書く、掻く、欠く、描く、ローセキ、粘土板、加算的、減算的、積算的、構築的、建築的、積む、摘む、剪む、琥珀、松脂、虫。
ライブドローイングとトークを同じ日に行い、翌日から数日間は廃人のようになる。足利市立美術館での吉増剛造展を見て、足利に一泊する。
グループ展『アートのなぞなぞー高橋コレクション展』@静岡県立美術館に出品
ボスコ・ソディに会う。
昨年対談した西野壮平くんのアトリエ@西伊豆に滞在し、一緒に絵を描いたり地元のスナックに行く。
ライブはテニスコーツ@VACANTがよかった。映画はアレハンドロ・ホドロフスキーの「エンドレスポエトリー」がよかった。

2017/05/03

楕円について

点が線の夢を見る / Do Dots Dream of Lines from Hiraku Suzuki on Vimeo.

二つの隔たれた点が、その間に存在するかもしれない線を夢見ている時、周囲には楕円の空間が生まれる。自分の制作において、楕円は「巡回」と「放射」が組み合わされた形。目の形とも、銀河の形とも呼べる。それは時空間の把握におけるひとつの原型である。

When the two distant dots dream of a possible line in between, an oval space occurs around them. Oval is a combination of “round space and radiant space“ (A.Leroi-Gourhan, 1964-1965), and it can be called the form of eyes and galaxy. It is a model for perception of time and space.

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「まわりの世界を知覚するのは、二つの方法でなされる。一つは動的で、空間を意識しながら踏破することであり、もう一つは静的で、未知の限界まで薄れながら拡がっていく輪を、自分は動かずに、まわりに次々と描くことである。一方は、巡回する道筋にそって世界像をあたえてくれる。もう一方は、二つの対立する表面、地平線で一つになる空と地表のなかで像を統合する。」
(A・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』 荒木亨訳、新潮社)
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大分市道中央通りの両端をつなぐ、全長約30mの地下道。4つの入り口から階段を降りると、全面シルバーの壁や天井に、巨大な黒の楕円が配置された、洞窟のような空間が広がります。そこには、路上の交通標識などにも用いられるリフレクター(反射板)や、シルバーのインクによって描かれた、星座のような無数の未知なる記号たちが、光を反射しています。
この作品は、地上の場所に帰属するのではなく、隔たれた地上の点と点をつなぐ地中のチューブです。この中を人々が行き来することによって、星と星が交信するように、こちら側と向こう側/闇と光/過去と未来といった対極がつながれ、時空間に新たな線が生成されます。

An subterranean passage with a length of approximately 30m that connects two sides of a municipal road. Once you enter through any of the 4 entrances and descend down the stairs, you will find a large cavern like space entirely in silver with massive black ovals along the walls and ceiling. On these ovals, you will find numerous unknown constellation like signs that reflect the light, drawn with silver ink as well as reflectors that are generally used on items such as traffic signs.
As commuters pass through this tube, they are connected by two extremes like intercommunication of two stars that indicate the here and there/darkness and light/past and present, thus generating a new line within their routinely frequented time and space.


photo by Takashi Kubo ©2017 Hiraku Suzuki
photo by Takashi Kubo ©2017 Hiraku Suzuki
photo by Takashi Kubo ©2017 Hiraku Suzuki
photo by Takashi Kubo ©2017 Hiraku Suzuki
photo by Takashi Kubo ©2017 Hiraku Suzuki
photo by Takashi Kubo ©2017 Hiraku Suzuki

2016/08/03

Drawing Tube

© Hiraku Suzuki

(English follows)

新しいプロジェクト「Drawing Tube」を始めます。

Drawing Tube(ドローイングチューブ)とは、ドローイングの新たな研究・対話・実践のための実験室であり、それらを記録して共有するために構想したプラットフォームです。

ここで言うドローイングとは、平面上に描かれた線のみではなく、宇宙におけるあらゆる線的な事象を対象とし、空間や時間に新しい線を生成していく、あるいは潜在している線を発見していく過程そのものを指します。
例えば、ダンスは空間への、音楽は時間への、写真は光の、テキストは言語のドローイングとして捉えることもできます。さらに地図上の道路や、夜空における星座、人間の腸なども含めてみると、私たちは世界の様々な領域に「ドローイング」を見出せるでしょう。

Drawing Tubeは、この「ドローイング」というキーワードを介して、様々な分野を巻き込んだイベント、レクチャー、展示などを不定期で行い、各分野間に管(チューブ)を開通させることを志向します。またそのアーカイヴを開示することで、「描くこととはなにか?」という根源的な問いに対する議論を喚起し、変容し続ける現在進行形のドローイングの可能性について考えていきます。

紙を丸めて運ぶための筒のことも、ドローイングチューブと呼びます。Drawing Tubeの活動は、特定の場所と結びつくのでなく、何かと何かをつなぐ管(チューブ)としてその都度かたち作られ、移動していくものです。管状の線が空中に浮かんでいるような、1匹のミミズが澄んだ池の水面を泳いでいるようなイメージです。

まずはこうした穴がボコボコ空いた状態で始めて、色々な意見を取り入れながら、少しずつ展開していく予定です。よろしくお願いします。

2016年8月3日 鈴木ヒラク

http://drawingtube.org/
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Drawing Tube is a new laboratory for alternative drawing research, discourse, and practices that focuses on archiving and sharing the results.

By the word “drawing” we mean something not limited to making lines on planar surfaces, but rather the process of generating new lines or discovering invisible lines, in space and time, with all possible universal linear phenomenon as subject.

Dance might be considered making lines in space. Music might be considered making lines in time and pitch. Photography might be considered making lines with light. Text might be considered making lines in language. Whether roads on maps, constellations in the night sky, the complexity of our anatomy, our world is often first apprehended through acts of making lines.

Drawing Tube will conduct an irregular series of events, lectures, and exhibitions, with the aim of making lines, and opening connecting “tubes”, between disciplines. Additionally, through presentations of the evolving archival record, we will work to elevate the fundamental discourse about the definition of drawing, within a perpetually changing exploration of the present and future tense of relational aesthetics.

The cylindrical plastic vessels we use to carry our works on paper are also called “drawing tubes”. And in this spirit, Drawing Tube will be a moveable laboratory, unbound to any one venue, but rather a portal tube of connection potential, each time assuming different shapes, forms, and locations. Drawing Tube will be like wormholes in time and space, a transparent worm traveling the surface of a clear pond.

First we will begin by exploring the many portals in the opinions, and sensibilities of those around us. We hope to deserve your attention.

August 3, 2016, Hiraku Suzuki

http://drawingtube.org/
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© Hiraku Suzuki

2015/07/14

かなたの記号 / Signs of Faraway

"歩く言語 / Walking Language" 55x6m / silver spray paint and silver ink / 2015 / mural at Hiraku Suzuki solo exhibition “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki

ドローイングは、絵とことばの間にある。かつて、“描く”と”書く”は未分化であった。古代人は、いわゆる言語を使い始めるずっと前に、そこら辺に転がっている石や、洞窟の壁や、マンモスの牙に、天体のリズムを刻んだ。人間はそうして記号を発明し、文字や言語を生み出すことによって、常に未知なるものとして目の前に立ち現れてくる世界の中に自らを位置づけ、世界を研究し、世界と関わり合いながら生き延びてきた。いまここを生きる私たちは、既存の言語の概念だけで、この世界の新しい時間と空間の広がりの中で起こっていることを充分に理解し、未来を指し示すことはできるだろうか。

僕の方法論は、この現在進行形の世界に対応した、もうひとつ別の考古学としてドローイングをとらえてみることだ。まず既に遍在している亀裂から世界に入り込み、世界を点と線に解体することからはじまる。

例えば路上にゆらぐ木漏れ日の形や、アスファルトの白線の欠片や、葉脈のカーブ、読めない数式、グラフィティ、肌に浮いた血管、ビルの輪郭、中国の棚田の地形、地下道での靴音の響き方、獣道、レコードの溝、熱帯植物の枝振り、車のヘッドライトの残像、SF映画のシーンに一瞬映る看板に描かれた架空の会社のロゴマーク、飛んでいる蚊が空間に描く軌跡。
そこにある点と線をよく見る。反対側からも見る。そしてなぞる。身体を使う。再配置する。何か現象を起こす。繰り返す。

こうして、解体された世界の欠片をつないで、新たな線を生む。この線は、”いまここ”と”いつかどこか”を接続する回路となる。その回路を行ったり来たりするのは、絵でもことばでもない、ただの記号である。このただの記号を、変化し続ける現在において発掘すること。僕の仕事は、離ればなれになってしまった”描く”と”書く”のあいだの闇、そのかなたに明滅する光の記号を見いだし、獲得し続けることである。
鈴木ヒラク

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Drawing exists between pictures and language. In fact, drawing and writing were once one and the same. Long before we began using what we now know as language, the ancients etched the rhythms of the stars into mammoth tusks, onto cave waves, and across the face of ordinary stones. This is how humans invented signs. Letters and language were developed by humans to orient themselves within a world where the unknown is constantly present. And we have managed to survive as a species by using language to better study and relate to our world. But is anyone living today capable of fully grasping new occurrences within our world’s ever-growing expanse of time and space and pointing to the future with only our existing concept of language?

My methodology interprets drawing as an alternative archaeology that corresponds to our world in the present progressive. I begin by first slipping into the world through the ubiquitous cracks that already exist and deconstructing them into dots and lines.

Take, for example, the wavering shapes of the sunlight as it filters through the trees onto the ground, the chipped white lines in the asphalt, or the curving veins of a leaf. An indecipherable mathematical formula, graffiti, veins bulging through the skin, the outlines of buildings, the topography of a rice terrace in China, the sound of footsteps echoing in an underpass, and an animal’s trail. The grooves on a record, the branches of a tropical plant, an afterimage induced by car headlights, the fictional company logo seen for a fleeting moment on a billboard in the scene of a science-fiction movie, the path of a mosquito flying through space.
I look at the dots and lines within them. I look at them from forward and behind. I trace them. Use my body. Recompose them. Produce an effect. Repeat.

In this way, I connect fragments of the deconstructed world and generate new lines, which become the circuit that connects the here and now with the somewhere, some time. Neither pictures nor words can be transmitted in this circuit. Only signs can. I excavate the signs in the ever-changing present moment. My practice is to discover and acquire flickering signs of light in the faraway, in the dark and widening gap between drawing and writing.
Hiraku Suzuki

"歩く言語 / Walking Language" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"歩く言語 / Walking Language" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"GENGA #001 - #1000 (video)" "鍵穴 / Keyhole" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"GENGA #001 - #1000 (video)" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"GENZO #2" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"casting" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"casting" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"GENZO (photo)" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"circuit #7" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"circuit #6" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki
"歩く言語 / Walking Language" installation view “Signs of Faraway” at ACAC (Aomori, Japan) photo by Kuniya Oyamada © Hiraku Suzuki

2015/06/02

Traits d’esprit /見えないものの特徴線

installation view “Traits d’esprit” 2015 / at Galerie du Jour Agnes b. Paris © Hiraku Suzuki

“...この世の中のどこかしら(かなた)の、幾つかの特徴線/traits(この、製図法的にして、かつ言語学的な言葉よ)を抜きとって、この特徴線/traitsで一つの世界をはっきりと形成することができる。日本、とわたしが勝手に名づけるのは、そういう世界である。”
- ロラン・バルト, 表象の帝国「かなた」

“…isolate some­where in the world (faraway) a certain number of features /traits (a term employed in linguistics), and out of these features /traits deliberately form a system. It is this system which I shall call: Japan.”
- Roland Barthes, Empire of Signs “faraway”

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Sometimes I feel like I’m just one silver marker in this universe.
To live is to draw a line.
To draw a line is to live.
Always trying to discover a new sign in the vast expanse of space-time.
Drawing is a signal that transmits between two points.
Birth and death. Past and future. Light and shadow.
Inside and outside. Negative and positive. You and me.
One silver marker will leave a trace of light.
Like a spirit.
In the state of echo.
Hiraku Suzuki

GENZO #17 / 2014 © Hiraku Suzuki
installation view “Traits d’esprit” 2015 / at Galerie du Jour Agnes b. Paris © Hiraku Suzuki
installation view “Traits d’esprit” 2015 / at Galerie du Jour Agnes b. Paris © Hiraku Suzuki
installation view “Traits d’esprit” 2015 / at Galerie du Jour Agnes b. Paris © Hiraku Suzuki

2014/08/28

描くことについてのメモ

casting #133 2014 / spray paint on printed paper © Hiraku Suzuki

描くこととは何だろう?

この僕の考えは、いつも変化の過程にある。

考えてから描くのではない。描いてから考えるのではない。
描くことそのものが、考えることである。

描くことは、日常の中に非日常を作ることではない。
非日常の中に日常を作ることである。

描くことは、ちゃんと恐れながら闇の中に入ること。ギリギリのところまで行って闇の輪郭を知ること。そこで光を放ち、輪郭を祝福すること。そして、ちゃんと戻ってくること。
この行為は、象る(かたどる)とも言う。

描くことは、誰かに新たな視点を提供するようなことではない。まず自分が新しい目そのものになること。

描くことは、「思いつく」ということより、「思い出す」とか「忘れる」ということに近い。

描くことは、風を感じるだけではなく、風に乗ること。石の上に立つだけでなく、石を削ること。泣きながら笑うようなこと。座りながら踊るようなこと。

描くことは、無音の内側に音楽を呼び戻すこと。

描くことは、信じない中で、信じること。

描くことは、いいことでも悪いことでもない。しかし、切実である。

描くことは、針穴から宇宙を覗くことではない。宇宙を針穴に通すことである。


casting 2011 - 2013 / spray paint on printed paper
時間の絵 (マンモスの牙) - drawing of time (mammoth tasks) 2013 / stainless steel
installation view at Nissan Art Award, BankART Studio NYK (Yokohama, Japan) / photo : Ooki Jingu  © Hiraku Suzuki
Hiraku Suzuki live drawing performance in Vancouver Biennale 2014
at Coal Harbour Community Centre (Vancouver, Canada) / photo : Back Seung Woo © Hiraku Suzuki
道路 (網膜) - Road (Retina) 2013 / reflector on wooden panel
installing process at Kirishima Open Air Museum (Kagoshima, Japan) © Hiraku Suzuki
Circuit #4 2014 / silver ink on paper © Hiraku Suzuki
Circuit #5 2014 / silver ink on paper © Hiraku Suzuki

2013/05/27

DRAWING NOW PARISについてのメモ

Hiraku Suzuki "casting" installation view at Galerie du Jour / DRAWING NOW PARIS 2013, Carrousel du Louvre (Paris, France)

ロンドンでの個展が終わり、今年3回目のイギリスからようやくドイツに戻ってきた(マッスル&涼子、いつもありがとう)。
ベルリンの春は変化が早い。4月の時点ではまだグレーで化石みたいにヒンヤリとしていた町並みを覆い尽くすように、緑がモリモリしている。リスがトコトコ歩いている。レゲエ好きがウロウロしている。どこか昔の日本の田舎町のようでもある。

さて、4月1日、初めてギャラリーに所属っていうのをしてみた。古い友人のアニエスがパリでやっている、ギャラリー・デュ・ジュールである。
http://www.galeriedujour.com/artistes.html

アニエス・ベーこと、アニエス・トゥーブレはファッションデザイナーとして知られているが、コレクターでもある。ヴェルサイユの森の中にある、楽園のようなアニエスの家に行くと、バスキアやマン・レイやハーモニー・コリンなど、彼女がこれまでに深く関わってきた作家達による大量の絵や写真が、本当に自然な状態で、当たり前のように壁中に飾られている。そこでは持ち主のアニエスがニッコリしているから、作品達そのものもリラックスしているように見える。まるで絵達が生きていて、モロッコ産のハシシでも吸いながら籐の椅子に腰掛けてオウムと会話しているような印象をうける。というのはバロウズの記録映像のイメージだけど。ちなみにバロウズの「裸のランチ」をパリで最初に出版したのがアニエスの元旦那であり、ギャラリー・デュ・ジュールの創設者の一人であるクリスチャン・ブルゴワ氏だ。アニエス・ベーのb.は、今は亡きブルゴワさんの頭文字なのである。

アニエスはじぶんでも写真や映画を撮ったり、もともと美術館の学芸員になる勉強をしていた人だから、このギャラリーのキュレーションにも熱心に関わっている。
どんなギャラリーかと言うと、まず、あまり売る気はない笑。たぶん自分が買いたいのだろう。いつもシャンパン飲んでる。パーティーではジョナス・メカスがカメラを回してたりする。そのジョナスはじめ、ケネス・アンガーやハーモニーなどの映像・写真のアーティストの他、僕もNYで一緒にライブしたノイズミュージシャン/詩人でもあるジュリアン・ランゲンドルフとか、バロウズが好きでモロッコの血を引くカデール・ベンチャマといった、絵を描いている同世代の友人達もいる。みなどこかつかみ所がなくて、現実離れした、神話に出てきそうな人達ばかりだ。
僕は一人で絵を描いているとき、たまたま現代に生まれてしまっただけの原始人/宇宙人のような彼らの存在をふと思い出して、親愛の情と共に、意味不明な笑いがこみあげることがある。

そんなギャラリー・デュ・ジュールが、DRAWING NOWという、世界中のドローイングのギャラリーがルーヴル美術館の地下に集まるフェアに出すと言うので、どんなもんかね?と、ロンドンとベルリンの往復の合間を縫って、4日間だけまたパリに行ってきた。

それはとても大きなフェアだった。ピラミッドの下を抜けて広い地下会場に入ると、大小・新旧、様々なギャラリーのブースがひしめいていて、デパートみたいに賑やかだった。みな最先端のドローイングの試みを紹介したり、情報交換にビジネスにと、目眩がするような熱気に包まれていた。ドローイングって流行ってるんだなあ、とか、いろんなドローイングの方法があるんだなあって思った。その一番奥の一角に、オオサンショウウオのように、ギャラリー・デュ・ジュールのブースが佇んでいた。

死んでいる人や生きている人の作品。まずブース正面に、テープでつないだ紙切れの上に女性の横顔を描いたアンディ・ウォーホルの絵が2枚。その左横に、僕のシルバーの作品。さらに横にジュリアンが描いた、点描とスプレーによる作品。ハーモニーの、シンプルで正直な絵が3枚。今とてもアート界で活躍しているカデールの新作はさすがという感じがしたが、「ダーク・マター」というタイトルの謎めいた作品だった。配置はアニエスがぜんぶ決めたという。
なんかここだけ空気が違うぞ、というのは誰の目にも明らかだったと思う。全くの感覚的な領域で、アニエスの夢の中のような、壮大なギャグのような展示が繰り広げられていた。スタッフは僕が見る限りシャンパンを飲んだりキスしたりしていただけだった。ほとんど値札がついてなかったし。

でも、僕にはなぜかこの空間がとても心地よくて、全体の中でむしろ一番オーガナイズされているように感じた。ここには現代、とかドローイング、というポイントでは絶対に割り切れない
、摂理のようなものがあった。生き様、とか言っちゃうと大げさだし正確ではないが、何かが生まれてから死ぬまでの時間や、作家が死んでからまた何度でも生まれ直す作品の時間の複雑さを丹念に愛でるような、アニエスの「記憶」に対する透徹した眼差しがあった。

「シルバーはかつて、未来だった。それは現実離れしていた。宇宙飛行士は銀色の服を着ていたし、持ち物も銀色だった。そしてシルバーは過去でもあった。ハリウッドの女優は銀幕で写真を撮られていたし。シルバーは、全てを消し去るんだ」―アンディ・ウォーホル

僕は4歳の頃からしばらく、夢を図形で見ていた。どこまでも続く光の直線が宇宙空間の中に浮かんでいて、その線が長すぎて端と端が見えない、というような抽象的で切ない夢を見ては、夜泣きしていた。永遠に続く直線というのは、自分にとって死よりもずっと恐いイメージだった。で、おばあちゃんに慰めてもらったりしていた。たぶん、すべての線には必ず始まりと終わりがあるっていうことを、確認したかったのだと思う。
だから、おばあちゃんが僕の生まれ故郷である仙台で亡くなったとき、悲しかったけど、どこか腑に落ちたんだと思う。

今回、アニエスに黒いスーツをもらったから
、それを着て彼女のオフィスに行った。二人でアンリ・カルティエ=ブレッソンのモノクロ写真を眺めながら、ゆっくり話した。いつも通り「私はあなたをストリートで見つけたと思ってるからね」と言われて、僕が中途半端なB-BOYだった時のことを思い出して笑った。2月にインドで描いて燃やした「文字の部屋」という作品の写真を渡した。薄暗い部屋でブレッソンの写真の前に立つアニエスは、ヴェンダースの映画「ベルリン・天使の詩」に出てきそうで、なんというか、向こう側とこちら側を行ったり来たりしているように見えた。

「写真は反射であり、ドローイングは瞑想である」—アンリ・カルティエ=ブレッソン

DRAWING NOWに参加してみて、もちろん有意義な場だとは思ったが、僕個人はドローイングという形式自体や、NOWという括り方にはほとんど何の興味もないことがハッキリ分かった。それよりも、ギャラリー・デュ・ジュールという時間と空間に、じぶんの現在進行形のドローイングが少しだけでも入っている事実がとても不思議で、面白いことだと思った。

iPhoneで撮った、Galerie du Jourブースで展示されていた他の作品のディテールを少しここに貼っておく。

Andy Warhol
アンディ・ウォーホル
Abdelkader Benchamma
(アブデル)カデール・ベンチャマ
Julien Langendorff
ジュリアン・ランゲンドルフ
Harmony Korine
ハーモニー・コリン

文字の部屋

Hiraku Suzuki "Language Room"
February 7 - 20, 2013 "Wall Art Festival Warli" Jivan Sikshan Mandir Ganjad, Dahanu, India
photo by Toshinobu Takashima



















2013/02/23

都市と記号

 
"Because I know that time is always time
And place is always and only place
And what is actual is actual only for one time
And only for one place"
—T. S. Eliot, Ash Wednesday (1930)


熱いインドで毎日インドカレーを食べる(当たり前)生活から、外にジュースを出しておくとシャーベットが作れることで有名なベルリンに戻った。もう6日後にはロンドンに居る予定なんだけど。
昨日は僕が尊敬するアーティストの中原一樹くんと一緒に土管を買いに行ったり、美術館のオープニングに行ったり、ケバブを食ったりと、晩冬のベルリンはそれはそれでせわしないんだけれど、今朝は久々に最近のことを少し振り返ってみたりしていた。たぶんそれが少しだけ必要だったから。

まあ、この数年は移動ばかりではあったが、特にここ最近は移動が続いたので。この一ヶ月ちょっとだけでも、乗り継ぎ合わせて合計15回ほど飛行機に乗っていた。なんだかなあ。でも、いわゆるアチコチ旅をしているという感じがしないのは、ひとつは帰り道っていうのが何なのか実は全然分からなくて、文字通り次にやることに向かっていく道でしかないのと、あとはずっと何かしら絵を描いていたからだと思う。どこでも、描きまくっていた。パリで深夜に鴨を焼きながら早朝の空港に向かう直前まで絵を描いていたり、金沢21世紀美術館の10時間ライブでは360mぶんの絵を描いて全部廃棄したり、東京のバーで描いたり、インドの2週間でロール紙40本描いて最後の朝に全部燃やしたり。もちろんベルリンでも、一人で描いたり、誰かとセッションしたり。

アトリエ内よりも外で、また、地面で描くことが多かった。フィールド・レコーディングのように、フィールド・ドローイングをしていたという感じで、何かずっと、移り変わって行くその場や時間そのものを記録しようとしていた気もする。記録というより、"記述"と言った方が近いかもしれないが。こういう記録/記述はたまに様々な形で残ったり、基本的には残らなかったりするけれど、僕自身や見てくれた人の体内の記憶に、文字になる前の文字、カタチになる前のカタチとして刻まれていたらそれでいい。

なんというか、世間的には、絵を描く人はアトリエ内に籠って描く、というイメージがあると思うけど、僕は元々どちらかと言うとアウトドア派というか、ずっと内と外との境界や、行ったり来たりの動きそのものを作品にしてきた気がする。何かを描くためにはもちろん場所と時間が必要だけれども、描くことによってはじめて生まれてくる場や時間というものがあるので。同じ場所に戻ってきた時には違う時間が流れているし、同じ時間には別の場所で何かが起こっている。"今ここ"に関わるということは、違う場所や時間のことを想像するのと同じことだったりする。

僕にとっては"描くこと"が単にアウトプットではなくて、外部の環境を翻訳して内面へインプットする行為でもあり、内からの表現(expression)が、同時に外からの感覚の刻印(impression)であるということを、よく思う。僕は、引き出しの底が抜けている。内と外の円環構造が成立しているときにだけ、ああ描いているなあ、と思える。そうじゃなかったらきっとアウトプットすべき内面の源が尽きて、自分の描く線に酔ってみたりとか、似たようなスタイルを繰り返したり、何か新しい引き出しを探しちゃったりするんじゃないかな。そうなってしまったら、それは僕の作品ではない。

正直いま"表したいアイディア"みたいなものは特にないし、移動するからと言ってどこか最終的な目的地に向かっているわけじゃない。もっと遠くに架空の星座を作るように、架空の言語でラップをするように、何かと何かの間に線を引いたり点を打って、新しい回路を作っていきたいだけなのだ。だから、あまり好きじゃないけど、フィジカルな旅をせざるを得ないんだろう。現場を移動することは、精神の地図上に軌跡を残す、つまりドローイングすることそのものでもある。移動すればするほど、回路が交差する密度が少しずつ上がっていく。そうして全く別の場所や時間からつながる回路が交差したポイントに、音楽のように、一定時間だけ、特別な場所のようなものが生まれる。

たまに一つひとつの記憶の回路を辿ってみると、細部ばかりがくっきりと、闇の中で明滅する交通標識のように次々と浮かんでは消えるばかりで、いつも最終的な全体像が見えないし、見ないようにしている。

ここ最近描いた何百枚という絵の細部はけっこう体で覚えていて、別の絵を描いているときにふと蘇ってきたりもする。でも絵自体のことだけじゃなくて、例えばジャングルでシャンディという16歳の少年が木に登って取ってきてくれたオレンジの花の蜜の味とか、吹雪の美術館の中庭で植野隆司さんが弾いていたギターの妙に金属的な音、一緒に服を作ったコムデギャルソンのショーのあとに話しかけてくれた川久保玲さんの黒い目や、ホコリ舞う狭い部屋で一緒に寝泊まりしていた遠藤一郎くんの荷物の配置なんかの断片がランダムに、後頭部あたりにあるチューブ型のスクリーンに投影されて、0.5秒くらいで次の像にモーフィングしていくような感じだ。

最近は、そうしてこれまで作ってきたたくさんの回路が、地中のアリの巣の断面図ように、あるいは地下鉄マップのように、複雑に交差して、どこかにあるようでどこにもない空想都市の交通網のようなものが段々とカタチづくられているような気もする。
背景にはここ数年ずっと脳内に鳴り響いていたアーサー・ラッセルの音が消えて、なぜかもっと昔に好きで聞いていたAphex Twinの音楽が小さく鳴っている。何か、それがこの空想都市の街頭スピーカーから流れる原始的な民族音楽のように聞こえ始めている。これまでとは別の次元で、統合が始まっているのかもしれない。

そういえば先月パリでアニエスベーに会って、40枚の絵を渡したときにこんなことを言われた。
「8年前に初めてあなたの絵を見たときは、全くカタチになってなかった。」って。
「でも去年NYのスタジオで見たとき、あなたの絵がギリギリのところまでカタチに近づいてるように感じた。まるで偶然、道で拾った立体物みたいに。でもあなたはその手前で留まって、決してカタチそのものにはしないのよね。」って言ってた。

イタロ・カルヴィーノの小説 ”見えない都市”の中で、世界を旅したマルコ・ポーロが、皇帝であるフビライ汗に、ジルマという実在しない都市について報告する一説が、僕の頭に浮かんだ。

 「記憶はまこと満ちあふれんばかりでございます。都市が存在し始めるようにと、記憶が記号を繰り返しているからでございます。」


川久保玲さんとの3度目のコラボレーション(パリ)
collaboration with Rei Kawakubo, COMME des GARÇONS SHIRT A/W 2013, Paris
回転するチューブ(東京)
the spinning tube at night, Tokyo

フイの家の壁 (トーレスヴェドラス)
improvisation on the wall at Rui's house, Torres Vedras
ライブドローイング(ダハヌ)
live drawing, Dahanu