2011/12/30

この映像




撮影/編集/監督:モニカ・バプティスタ
撮影:安念真吾
整音:ヒューゴ・サントス
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生描画:鈴木ヒラク
生演奏:ラズ・メシナイ
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今さっき完成版を初めて通しで見て、これは本当に映像として面白いと思った。この場にいなかった人も、いてくれた人も、できれば最後まで見て/聞いてほしい。自分はさすがに一回見るだけでよくて、もうたぶん見ないけど。でもどこかの大きいスクリーンで爆音で一回だけ上映とかしたら面白いかもしれない。

ちなみに解説じゃないが、ここで少し紹介をしたい。このラズというユダヤ人の音楽家は、最高です。彼とはヘルズ・キッチンにある大きな劇場みたいな場所で知り合った。僕はもともと10代の頃から、当時ラズがやっていたSub DubというユニットやBADAWIという別名義での音楽は耳にしていたんだが、ライブを見るのは初めてだった。その日はNY中の即興演奏家が集まり、入れ替わりで5時間演奏し続けるというイベントで、ジーナ・パーキンスやエリオット・シャープ、DJスプーキー、アンチポップ・コンソーティアム、イクエ・モリ、ジョン・ブッチャー等々という凄まじいメンツがそれぞれの独自なやり方で音を出して、ある流れをかたち作っていた。その中で、最も異彩を放っていたのがラズだった。一番フザケていて、深淵で、果敢で、しかも完璧なプレイをしていた。それで終演後、いきなり彼に「何かやりたいっす!」とか熱く話しかけている自分がいた。そのあともう一回ソーホーのクラブでも再会した時にまた色々話して、「ンじゃあなんか即興で音出すワー」と言ってもらい、今回のショーが実現した。とにかくラズは、本当に音楽の通りの人間です。

それから、この映像を作ったモニカという映像作家も、かなり興味深い人間です。最初はスタジオの外の階段で座っているときにタバコの火を貸して普通に話していたんだけど、次の日近所でやっていたジョナス・メカスのショーのオープニングでも会った。それで、あとでスタジオが隣だったことに気づいたっていう。彼女の作品はいくつか見たけど、巨石を撮ったフィルムとか、ロシアの兵士とチェチェン人の2人を同じ鉄道の中で撮った映像とか、面白かった。この人は映写機を使ったパフォーマンスもやっていて、来週フィル・ニブロック御大とコラボレーションをするらしい。彼女みたいにテクノロジーに精通している若い人が、フィルムとかカセットテープとかレンズとか、ガラクタのようなものや、音楽も含め、古いもの全般に愛着を持って、大事に使っているのを見ると、素晴らしいなと思う。

サウンドエンジニアのヒューゴはモニカの友達で、今はサウンドの勉強と仕事をしているが、もともとカイピリーニャ専門のバーでバーテンをしていたという男。彼の作るカイピリーニャは2年前に僕がブラジルで飲んだのと全く同じ味がするし、同じ効き方がする。それで、なんというかとにかく最高にいいヤツで、だから、この映像の音はめちゃくちゃいいはずです。

そんなメンバーに加え、ちょうどNYに滞在中だった、長年の戦友であるMC/アクティヴィストのシンゴ02くんが絶妙なカメラワークで参加してくれた。彼は本当に多才で、グラフィックもすごいの作るし、写真や映像もかっこいいのを撮るんだよなあ。

今年は暖冬と言われているが、やはりNYの外気に触れると、なんか全体的に自分の表面がビリッとする。NYは常に自らをアイデンティファイすることが求められる場所だ。人と人との間に、日本のような余白もなく、ヨーロッパのような深い歴史もなく、ただ平面上に無数の差異が同時にあり、ぶつかり合いせめぎ合っている。「で、お前は何者なんだ?」と。たぶんこういうせめぎ合いの中で生まれる「自由」ってものがあるんだと思う。いま僕はそれを一番学んでいる気がしている。

そんな中、こうして東京でやるのと変わらないようなテンションで、でも少しだけ前に進んで、面白い、変な、素晴らしい志を持った仲間達と協力して新しい何かを作れたことは嬉しいし、本当によかったと思う。
感謝。

よい年を!


2011/12/18

このライブ















やった直後、iPhoneをなくした。いっしょに記憶もなくしました。舌がビリビリする位の高熱を引きずったまま合計40mぶん描いたりしたもんで。でも、内容はよかったと思う。面白い映像も残っているし、後になって嬉しい感想を聞いたり、好意的な取材も受けた。しかし何より、手が感触を覚えている。まああと3ヶ月弱、NYではiPhoneナシでいきます。(アメリカ用のおもちゃみたいな携帯は持っています。)

このライブを見に来てくれた画家がいる。僕は初めて会ったんだが、お互いの作品のことは知っていた。昨日の昼、ブルックリンにある彼のスタジオを訪ねた。不思議な奥行きを持った音楽みたいな絵に囲まれながら、コーヒーを飲みながら、窓の外が暗くなるまで2人でいろいろと四方山話をした。共通の知人である、数年前に突然この世から消えてしまった「時計」という名前の音楽家の、キラキラした音楽を久しぶりに聞いていた。それで、なんというか。一昨日に89歳のジョナス・メカスの新作映画「Sleepless Nights Stories」を見ているときにも、逆の方向から同じようなことを感じんたんだけど。本当に人間ってヤツは、そのものが音楽や映画みたいで、なんていびつで複雑でバカバカしくて理不尽で、いとおしい現象なんだろうか。その現象の前にも後にも世界はあり続けるっていうのに、限られた時間と空間の中でじたばたする。それを飛び越えようとしたり、壊そうとしたり、諦めたり、乾杯したり、俳句を詠んだり、歌ったり踊ったり、何かよくわからなくなっちゃったり、何かに気づいたり、全てをかけて何かを作って刻み込もうとしたり、いろいろする。

今年が終わろうとしている。まあまだちょっとあるが。どこにいても、生きてりゃ、日々いろいろなことが起こる。でも今ひとつ自分にとって確かなのは、このとんでもなく波打った時間と空間の中で、僕の作品をフラリ見に来てくれた人へ、心の底から「ありがとう」って伝えたい気持ちだ。伝えきれないから、またコツンコツンと、自分の手で描いていく。実際は描いているときには、何も関係ないんだけど。でも同時に全部が関係ある。誇張でもなんでもなく、本当に何もかもが、当たり前のように関係している。そういうことをしっかり実感しながら、まだまだ先に進んでいこう。

というわけで、ここに写真をいくつか載せておく。Razの音が本当に素晴らしかったから、映像もたぶん、また後で。

Hiraku Suzuki Live Drawing Performance with Live Music by Raz Mesinai
at Location One (NY)

photo by Chito Yoshida





















2011/07/17

リズムとしてのドローイング、シグナルとしてのドローイング


スーツケース一個で「ナイストゥーミーチュー」とやってきて、石けんと塩・胡椒、あとタワシを買うってところから始まった9年ぶりのロンドンだったが、トップスピードのまま2ヶ月が過ぎ、気づけば自分がタワシみたいになっていた。もうすぐ個展の搬入が始まるけれど、未だにスタジオと鋳造所を往復しながら、試行錯誤の日々を過ごしている。いま鋳造所では、砂を使った鋳造法を職人さんに教わりながら、架空のロゼッタストーンのような銀色の彫刻作品を作っている。熱で溶けた鉱物が引き起こす様々な自然現象との原始的な格闘が続いていたが、最近ようやく仲良くなれたというか、カチリとはまった感触を得た。いやー面白いよ、鋳造って。実際、1回むけた右手の皮が再生して、手もリニューアルしちゃった。

個展の会場は天窓がいい感じのかなり広いギャラリーで、展示は光が反響し合って空間を飛び交っているような、なんというか、ぜんたい的に「新しい音楽」みたいになったらいいな、って思っている。
というのも、この前、おれがやっているのは音楽なんじゃないか?とふと思ったんである。絵を描いたり彫刻を作っているようで、実はずっと自分の音楽をやってきたんじゃないかって。確かに10年ちょっと前までは、日々悶々としながらも夢中で音楽ばかり作って、音楽で食っていきたいと漠然と思っていた。でもそれ以上に、一番聞きたい新しい音楽は、自分の手で作り出したかった。その頃の自分が、どういうふうに時間と空間を知覚していて、どんな音の質感や配列や動き方、つまり「リズム」を求めていたか。そこの部分の記憶が、自然と今に重なった。アーサー・ラッセルのアルバム、ワールド・オブ・エコーのCDのライナーにも「リズムはシグナル」というようなことが書かれていたっけ。10年かかったけど、これは今の自分にとって大きな気づきだった。

ところで、先日、UAL(ロンドン芸術大学)学長のクリス氏からエッセイの執筆を頼まれて、このHIP HOPとバックパッカー旅行から学んだざっくりした英語で、自分の制作や今度の個展のことについての短い文章を書いてみた。時間もないので以前に答えたインタビューなどから多少切り貼りしたりもしたが、今の日本のことも書いた。これはUALの大学院が年刊で出版している「Bright 6」という本に掲載される予定だという。
がんばって書いた英語の文章、それから日本語の訳文も後につけてここに載せておく。


Drawing as signals


Hiraku Suzuki



I have been drawing since I was about 3. There used to be a lot of blueprints at my home because my father was an architect and I used to draw something like a moai on their reverse. I also spent a good chunk of my childhood excavating unknown things like earthenware fragments, minerals, and fossils in my neighborhood. When I was 10 years old, I saw a small photo of the Rosseta stone and read stories about deciphering the glyphs, which completely fascinated me. Then I wanted to become an archaeologist. 



Although now an artist my practice, including works on paper, on panel, mural, installation, frottage, live drawing, video and so on, are reference to the new possibilities of drawing  in the world today. The method I have in my mind through the act of drawing, however, is still closer to ‘excavating’ things that are hidden in here and now, than to ‘depicting’ objects/scenery/ideas in a classical way. 



Archaeology was considered a profession for artists until the 19th century. Today, now there are the vast uninterpreted fields from our past.  I can’t help thinking about the genesis of drawing which has the synchronia with the beginning of language in the human history. There are various hypotheses on it, but I think the most relevant one is the 29 lines that the upper Paleolithic people carved on common stones around 35 thousand years ago - which are thought to have been recorded the days between phases of the moon. There were 4 elements in the occurrence; the light, the transformation, the stone and the act of carving. Those carved lines might be thought of as the most primitive form of glyph or drawing - they function as the record of time past and also as the signal of the future. 



Obviously, my country Japan is facing an unprecedented crisis now, and this is no longer the local concern in Japan, nor is the issue's scope limited for the people of today. It is particularly at times like this that one starts to ask questions about the strong relationship between what we call art and humanity in a real sense.  In order to do so, we should know that the moment we call 'now' is not a dot, independent from past and future. I believe, by the act of drawing and looking at the signs that have been drawn, we can take 'now' into our own perspective, because drawing has always been the intersection of direct human circumstance and the long cosmic time since its birth, and it will continue to be. 

My exhibition 'Glyphs of the Light' at Wimbledon will consist of about 40 pieces of new drawing work and some sculptures which I am producing during this residency in London. Every work represents the intersection of my intimate relationship with phenomena taking place on my current environment at Chelsea as well as my interest in archaeology and language. Recently I have been greatly inspired by the residual images of transformation of sunbeams streaming through leaves on the road.  I hope my works to be as the creative mediator – linking subtle memories of 'signs' and 'phenomena' with the future.


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シグナルとしてのドローイング

鈴木ヒラク

僕がドローイングを始めたのは3歳の頃でした。父が建築の仕事をしていたので、家にはいつも図面の青焼きがあって、その裏にモアイのような絵を描いていたことを覚えています。また、子供の頃は発掘少年で、土器のかけら、鉱物や化石なんかを近所で発掘して遊んでいました。そして10歳の頃にロゼッタストーンの写真を見て、石に刻まれた謎めいた文字の形に完全に惹かれてしまい、それが解読された経緯を知るにつれ、将来は考古学者になりたいと思うようになりました。

いま僕はアーティストとして、紙やパネルの上にドローイングをしたり、壁画・インスタレーション・フロッタージュ・ライブドローイング・映像など、様々な自分自身の作品を作るという仕事をしているし、それらの作品はすべて、人間が何かを「描く」という営為の、今日の世界における、新しい可能性の追求だと認識しています。しかし、いつも僕が描く行為の中で実践しているのは、何か個人的な事象や風景やアイディアを「表す」ことよりも、やはりいまここに秘められた何かを「発見する」という発掘に近いことなのです。

もともと19世紀に入るまで、考古学はアーティストの仕事でした。そして未だに、僕たちの過去という時空間の中には解読されていない広大な領域が広がっています。僕は、人類史においてドローイングが始まった、その瞬間のことについて思いを巡らせてしまいます。それは文字の始まりとも共時性を持っていたはずです。もちろんそれらの始原については様々な仮説がありますが、僕がいま最も関心があるのは、約3万5千年前の後期旧石器人が、そこらに転がっている何の変哲もない石に刻んだ 29本の線について、繰り返す月の満ち欠けを記録したものだとする説です。ここに僕たちは4つの要素:光・変容・石・そして刻むという行為、を見出すことができます。この29本の線が最も原始的な文字、あるいはドローイングであるとするなら、それらは過去の時間の記録であると同時に、未来の時間の変容を指し示すシグナルだと言えるでしょう。

ご存じのように、僕の国、日本はいま、かつてない危機に直面しています。そしてこれはもはや日本に限られた局地的な関心事ではなく、また現在生きている人間だけの問題でもありません。いま、アートと呼ばれるものと、人間の存在自体との本来の強い結びつきを、現実的な意味で考え直さなければいけない時が来ているのだと思います。それをするために僕たちは、まず、「いま」が過去や未来から切り離されたひとつの点ではない、ということを知る必要があります。僕は、人間は描くという行為によって、また描かれた痕跡を見るという行為によって、「いま」という瞬間をそれぞれの時間軸の中で捉えることができる、と信じています。なぜなら、ドローイングは、その始原からずっと、人間が直接的に向き合っている現状と、長い長い宇宙的な時間との交差点であり続けているからです。

ウィンブルドンでの僕の個展「光の象形文字」では、ロンドン滞在中に制作した約40点のドローイングと、いくつかの彫刻作品を出品する予定です。すべての作品は、描くという行為の中で、いま僕が滞在しているチェルシー周辺の環境と、考古学や言語学への関心が交差しています。最近は、道路に落ちている木漏れ日の形の変容、その残像にとても想像力を喚起されています。僕はこれらの作品達が、日常の中にありふれた「しるし」や「現象」の、とても些細な記憶を未来へとつなぐ、創造的な媒介物になることを願っています。

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2011/05/17

道の続き

3日前、ノルウェーから帰国した。そして2日後にはイギリスに飛び、ロンドンのチェルシーカレッジオブアートの新しいレジデンス施設で約3ヶ月の滞在制作と、8月上旬にウィンブルドンのギャラリーで個展が決まっている。今回は初めて金属を使った作品を作り、いくつかはロンドン芸術大学に収める予定だ。さて、どうなるか。イギリスからの帰国予定日は8/15である。

人間は肉体という物質をもっているし、その時々にいる場所と結びついて生きているから、物理的に空間を移動することによって、かつていた場所について知ったり、じぶんの輪郭がよく見えてくることがある。ただ、例えどこに行ったとしても、行かなかったとしても、エイリアンの目線で世界を観賞するだけじゃなく、かと言って単にその場に慣れ親しんでるわけでもない、もっと長い長い時間の中での必然としてその場所にいるっていう状態を常に作り出し続けること、そうあろうとする姿勢こそが大切だと今は思う。おれの場合は「描くこと」がそのための技術なのだと思う。

思い返せば2010年は夏前のパリとベルリン遠征以外はほとんど東京から出なかったわけだが、2009年は一年の半分以上は東京の外にいた。オーストラリアに二ヶ月、それから金沢、タイ、インド、北海道など、長期の移動が続くオン・ザ・ロード状態な年であった。そして年末のブラジル・サンパウロ滞在の最後に、「道の終わり」という絵を描いた。

ブラジルを中心に世界7カ国から集まった10人の同世代アーティスト達と朝から晩まで一緒にいて、毎日カシャーサを飲み、サンバで踊って、肉を分け合って食い、悩みを打ち明け、服を着たまま屋上のプールに飛び込み、毎日のようにやってくるハイテンションなテレビの取材にうんざりしたり、お互いの作品について真剣に議論したり、ケンカをしたり、誰かと誰かが恋をしたり、カラオケしたり、全裸になったり、DJブース付きのバスに乗ってみんなで旅をして、ミナス州のジャングルの中にある美術館に行き、無数のとんでもないアートや奇妙な植物に触れ、そこでも毎晩朝まで野外でパーティーし、音楽をつくり、40mの壁画を描き、展覧会の初日にはメタルバンドを組んでライブをした。帰る日には全員と抱き合って泣いた。そんな生涯忘れられないであろう熱すぎた一ヶ月の、その最後に描いたのが、「道の終わり」という12枚の小さな作品だった。

このタイトルはアントニオ・カルロス・ジョビン作のボサノバスタンダード「三月の水」の冒頭で「棒、石、道の終わり」と歌われる詞からの引用である。街中で面白い形の石を見つけ、それをシルバーのインクに浸して、白い紙の上にスタンプすることで描いたとてもシンプルなドローイング。「道の終わり」は「石」の次に来る言葉、つまり石そのものではなくてその痕跡(エコー)。物質が消えても、記憶は銀の光を放っているということ。

そうしてすぐに東京での2010年は始まったけれど、やはりブラジルは遠くて、初めて異国へのサウダージ(郷愁)という新しい感情を知った。ブラジルの質感の鮮烈な記憶が肉体の中でエコーを続けていた。思えばその辺りから、じぶんの求めるテーマは、物質や実在の場所そのものより、「光」とか「結晶」とか、ちょっと抽象的な領域に入っていった。銀河と言語の間というタイトルの「GENGA」という銀色の本を出し、森美術館では反射する光を体感するインスタレーション「道路」を制作し、白い紙に石英の入ったシルバーマーカーで点描した「U」を発表したり、シルバーのスプレーで絵を描いて2冊目の作品集「鉱物探し」を出版したりした。

作品「道の終わり」から一年半が経って、今ようやくその「続き」が、入り口の輪郭が見え始めている気がする。

というわけで、ブラジルとは真逆でありつつ、とても深い郷愁を感じさせる国、ノルウェーでの今回のパフォーマンスの写真を紹介する。
このライブは相当よかった。記録映像はDVD化されることが決まっていて、そのリリースパーティーは東京でやりたいと思っている。

MAI JAZZ FESTIVAL PRESENTS
Kitchen Orchestra featuring Tetsuya Nagato & Hiraku Suzuki
at TOU SCENE (Stavanger, Norway)
photo by Karina Gytre










2011/03/17

一週間後

さて家の前の桜の木が咲き始めた。いいなー。あたまイカレそうな満開の桜も嫌いじゃないけど、おれはこれくらいの方が好きだなー。何かが宿り、ゆっくりと時間をかけて内側に生命力を湛え、これからグイングインに広がろうとしている、まさにあたらしい表現が始まろうとしている姿。この桜も、じぶんの一部だ、と思った。

今日は普通に東京の作業場で絵を描いていた。余震のたびに、何かが内側で静かにはじけ続けていた。いくつかのチャリティーの誘いは今のところ断らせてもらっている。できる範囲で寄付をしたり、それぞれに意義のある活動の応援はしたいけど、じぶんの絵で直接的に何かを訴えたり、今困っている誰かを救おうとはどうしても思えなかったから。

「見る」ことが対象を内側に宿す行為だとしたら、地続きに「描く」という行為があって、それは何かを外の世界に「発する」ための方法だけではない。もちろん描くことは目の前の現実に働きかけるアクションであって、現実を変形させたり、そこに何かあかしのようなものを刻むことでもある。でもそれと同時に、描くってことは、みずからの肉体を通して、外部の環境を「内在化する」プロセスだ。時には膨大な歴史や、日常の些細なコトや、いま起こっているような破壊的な外部の環境さえも内面に取り込むことになる。そういった遠心力と求心力のタフなフィードバックがあってこそ、描き続けることができる。

だから、求心力を強めることで、遠心力が高まるということもある。行く手に立ちはだかる難題の前で不安になったり足踏みしているときこそ、壁の向こう側よりも足下に意識を集中し、掘ってみる。とことんフィジカルにやる。手で直に紙に触れ、線を描いたり消したりしながら、あぁここはもうちょっとボテッとした感じでいくか、とか、ここはこうで、こうするとこうなったからこう、とか、そういうきわめて具体的なことを高速で選択し、判断し、手足とニューロンを使って進める。そこにいちいち納得しているヒマはないし、傑作をつくろうとかしているわけじゃない。ただそういうカンジで、集中して絵を描く時間の中で、なにか内側の核心に触れる瞬間がくる。それは何にも代え難いよろこびでもある。そこまでいけば、それが別の位相での確信につながっていき、外部で起こっていることがよくわかるようになる。目の前を塞ぐぶ厚い壁に入っている小さな亀裂を見つけられる。いつの間にか壁の向こう側に立っていたりすることもある。

たぶん、おれは人が言葉を使って考えるのと同じように、線を描くという行為で包括的にものを考えているんだと思う。じぶんの思考に、濃密な身体性とか物質性が入ってくることで、いま起こっていること、置かれている環境への密度がグッと出てくるのだと思う。しかし、もともと人類史におけるドローイングとは、そうして始まったものではないか。特に洞窟画は、想像を絶するような寒さと飢えと外敵からの危険や恐怖の中で生き続けるための、総体的な祈りではなかったのか。

もちろん全てがいつも必ずうまくいくワケじゃない。限られた時間と空間の中でどこまで掘り進められるか、どこまで世界の複雑さを内面化できるか。じぶんにとっては今だけじゃなく、「描く」ことはいつも、そういうことに他ならない。希望を描くのではなく、描くことそのものが希望である状態にあり続けたい。

すべての被災者の方々、救助と復興に関わる方々、何か行動をしなければと焦っているひと、放射能を浴び続けているひと、情報に翻弄されて不安になっているひと、悩みながらも避難することを決意したひと、コンビニで「トレーニング中」の名札をつけながら一生懸命にレジを打っているひと、みんなじぶんの一部だ、と思う。勝手ながら、じぶんもあなた方の一部でありたい。少しでも状況がよくなることを願っています。


2011/03/10

快晴、ノルウェー

気が遠くなるほど久々にビックリマンチョコを買った日。晴れてブログ引っ越し。

さて今日、おれが朝に描いたドローイングを永戸鉄也さんが切り刻んでコラージュし、'PULSE'という文字にした。永戸さんとは今年5月に一緒にノルウェーに行き、Kitchen Orchestraというビッグバンドのコンサートで映像演出を担当することになっている。Mai Jazz Festivalなる大きなイベントの中での演目のようだ。今回は、そのプロモーションヴィジュアル用にタイトル文字を作って欲しいという依頼にきわめてサクっと答えた形である。普段は居酒屋や自宅で際限なく飲み話し続けている永戸さんであるが、意外にも共作したことは一度もなかった。でもこうしてちょろっと一緒に何かを作るだけで、やはりとんでもなく深い部分にピントが合って、ナルホド、高解像度で伝わってくるものがあった。こんなコミュニケーションもあるんだな。めちゃくちゃいいじゃないっすか。

永戸さんとノルウェーに行くのは2度目である。彼とは最初にどこで会ったのか、たぶんずっと前、SuperDeluxeだった気がするが。はじめから「ようこそ先輩!」って感じではあった。その作品は、山口小夜子さんの顔にコラージュを施した何かの雑誌の表紙で初めて知った。お互いあまり深くは知らない関係のうち、気づけばいきなり2008年の10月、とあるイベントに参加するために同じアムステルダム行きの飛行機に乗っていた。アムスのダム広場でちょっと一杯飲んでからまた飛行機を乗り継いで、夜中にノルウェーのスタバンガーというフィヨルドにほど近い小さな街に着いた。そして街のはずれの一軒家で、2週間ほどの共同生活が始まった。Tou Sceneという元ビール工場を改装した広いスペースでの展示とライブパフォーマンス、それからおれは公園での壁画の仕事もあった。後から灰野敬二さんや中原昌也さん、生西康典さん、ピカチュー、そしてマイクという、タモリ倶楽部にそのまま出られそうな仲間達が隣の一軒家に到着するまでの1週間ちょっとは、二人で静かに過ごしていた。それぞれ勝手気ままに何か作品のようなものを作ったり、港で買ったエビを生で食ってみたり、料理して食ってみたり、街をうろついて黒いカモメを眺めたり、化石を買ったり、夜は丘の上や港の近くや家の前などに点在する、たいしてイケてないバーでひたすらコニャックを飲んで語ったりしていた。そのうちに二人とも、このスタバンガーという雨ばかりで寒くて何から何までパッとしない街がちょっとだけ好きになっていった。

思い返せばおれがリビングのソファーで絵を描いているとき、木製のダイニングテーブルでは永戸さんが日本から持ってきたくしゃくしゃの新聞を繰り返し読んでいて、ときどき思い立ったように切り刻んでノートにコラージュしていた、そんな姿が浮かぶ。「新聞好きっすねー」「内容じゃなくて、字面をボーッと眺めてるのが好きなんだよね、絵的に」って言っていた。それはおれもよくわかる、と思った。家ではネットのつながりも悪かったので、ほとんど日本との接触も諦めていて、ひとりでボーッとする時間も長かった。本当に静かに時間が流れた。音楽は何か小さく鳴っていた気もするが。それはあえて言葉にすればじぶんにとってとても特殊な、でも自然な、パッとしなさすぎて笑っちゃうような、味わい深い2週間のヴァケーションだった。

ライブが終わった次の日、軽い二日酔いの頭を抱えつつもせっかくだからってことで、二人で船に乗ってフィヨルドを見物しに出かけた。いやースゴイよね、フィヨルドって。ヨセミテとかの数倍、いや比較にならん位スケールがでかい。巨大なマンモスのようなむき出しの岩肌、複雑に傾いた灰色の地層の連なり、それらが鋭角に、黒い水平線に深く吸い込まれていた。どこまでも黒いだけの平らかな海を奥へ奥へと進むにつれて、風景が割れたガラスのようにじぶんの内側に突き刺さってくるようだった。船のエンジンノイズの中、世界の果てに広がるそんな文字通りの「ハードコア」を前に、それぞれ無言でちょっと半笑い、みたいな状態になっていた。「大きさ」という概念と同時に、「距離」とか「時間」を一から考え直させられるような風景。寒い土地の大自然は、色も温度も匂いもなく、ただ硬質で、不毛で、無慈悲である。しかし地球の始まりや終わり、生命の前と後にも際限なく続いていく過去と未来の時間に想いを馳せざるを得ないような途方もない美と迫力がある。永戸さんは本当に、寒い場所の自然が似合う人だと思う。

またあそこに呼ばれてるんだなぁ。もう二度と来ることはないんだろうねーなんて言っていたのに。ホント、面白いもんだよな。