2020/07/22

新しい線を思い出す



この春頃から、自然の線をなぞることが増えた。庭に植えたゴーヤの茎の線を辿ったり、遠くの山の稜線をなぞったり、小石を転がしてその軌道を追ったりする。時には、4歳の娘と一緒に描いたりもする。そうしていると、全ての線が何かと何かをつないでいることがよくわかる。何かを新しく学んでいるようで、思い出しているような感覚がある。描写するのではなく、ただ目や手を動かしてなぞることで、線を身体に入れる。すると同時に、身体の中からも線が出てくる。それらの線は、双方向の触手のように自分を自然とつなぎとめ、宇宙全体の揺らぎの中に位置付けてくれるのだ。

一方、人間社会の中だけに限って見ると、全ての線は境界線であり、いつでも何かと何かを分断している。あらゆる問題を引き起こしているのは、この分断の線である。目に見える線だけではない。国境も、性別も、人種も、宗教も、思想も、芸術でさえ、見えない境界線で隔て、固定しようという力学が加速している。時間と空間に張り巡らされたこの境界線の間で、ワームホールのように、どこかとんでもなく遠くへとつながる回路を作る必要がある。

僕が今回ドローイングを行うのは、東北芸工大の能舞台である。周りを水で囲まれた能舞台は、開放的な空間でありながら、ミニマルに閉じられた静寂の場所でもある。正方形の舞台の柱の間から、遠くに山々の稜線が見える。そしてほぼ正面にあるのが、以前僕が登山しながら線を体内に入れてきた月山だ。

今回は、山伏の坂本大三郎さんの協力を得て、ドローイング前日に、月山に転がっている小石を拾ってくることになった。実際の小石を5m四方のキャンバスの上に配置し、それらを起点として、そこから何か線を発掘するように描いてみたいと思っている。発掘とは、今ここに潜在している未知を思い出す、ということだ。
遠くの場所へ移動するのではなく、今ここで深い渦を巻くことで、どこまで遠くへ行けるか。何に触れられて、何に触れられないのか。今はまだ何も分からないが、少しでも新しい線と出会うことができれば、と思う。
終わったら、小石は月山に返す。