2019/10/22

テキスト

MOTアニュアル2019 Echo after Echo:仮の声、新しい影 2019|会場: 東京都現代美術館|写真: 森田兼次
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 20年前に、拾った枯葉の葉脈で最初の記号を描いた時から現在に至るまで、自分にとって作ることは、世界を新しく把握し直すための発掘行為であり続けている。もっと遡れば、採取した環境音を素材としてダブと呼ばれるような音楽を作っていた頃から、それは始まっていたのだろう。

 しかしある時点で、既にある世界の断片を発見したり再配置するだけではダメで、もうひとつ別の言語を作る必要があると気づいた。それで世界の欠片自体のねつ造を試みるようになった。それはキスよりも先にキスマークを存在させるような行為であり、いつも意味よりも痕跡が、物質より反射が、ポジよりネガが先に来る。

 音の痕跡だけで作られたアーサー・ラッセルの音楽作品「ワールド・オブ・エコー」のように、ダブという手法は、かつてあったはずの/これからあるはずの世界を暗示するのだ。

 それで自分は、シルバーなど、光の現象によって物質性や意味を一旦消し、ものごとを反転させるようなメディウムを使い始めた。例えるなら、それまでは路上で拾った針穴から外の光を覗いていたのが、今度はその針穴に外から光の糸を通すようなベクトルが生まれたわけだ。

 そして最近は、描く行為の集積が、だんだんと「織る」行為に近づいてきた。瞬間的な即興の身振りによって次々に生まれる記号の断片が撚り合わされ、ある秩序が、織物のように浮かび上がってくる。つまり、別の言語を使って長いテキストを書くような試みが始まったと感じている。

Interexcavation #02 (detail)


2019/09/08

今描くことについて

at Galerie Chantier Boite Noir (Montpellier, France) photo by Christian Laune
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灼熱の南仏、モンペリエに来て10日。最初の2日は街をうろついたり、地中海で軽く火傷したりしつつも、結局はただ描きまくる日々を過ごしている。先週は洞窟のようなギャラリーの壁に、そして昨日からはMO.CO.Panaceeという美術館の壁に。今回は、いくつかの石を壁に設置して、それを起点として描き始める、という新しい取り組みをしている。
以前ヨーロッパに住んでいた頃は当たり前だった自炊生活をして、昼は暑さでボロ雑巾みたいになりながら、1日2,3回シャワーを浴び、ただただ描きまくって洗濯して寝る。朝は開けっ放しの窓に近所から流れ込んでくるボブ・マーリーで目覚め、また描きに行く。思えば、昨年末に東京に新しいスタジオを作ってからしばらく篭って制作していたため、3週間以上の海外での滞在制作はとても久しぶりだ。そんな中、やはり確信するのは、自分は場所や時代が変わってもとにかく描いて生きていくのだ、という単純な事実である。

大切なのは、常に新しい起点を見つけ、それに駆動されようとすること。決して、同じ形を繰り返さないこと。知ったつもりになって同じ形を繰り返すのはダサいだけでなく、危険である。かと言って、真新しいアイデアを思いつこうと努力するのも違う。自分がやるべきことはいつも、ここまで進んできた道の2m先の地面に落ちている。ふと見ると、ゴミや犬の糞に混ざって、丁度いいサイズの小石があったりする。前や上ばかり向いていたらそれらのヒントを見過ごす。

尊敬する友達と馬鹿話をしたり、真剣に議論して、悩みや喜びを分け合って抱きしめて別れた、ヒンヤリとした夜の帰り道に、そういうものを見つけたりする。しばらく聞いていなかった音楽の中や、長らく閉じていた本をふと開いた時に、何かを新しく見つけることもある。

そこからまた描き始める。対象の表面を触り、匂いを嗅ぐ。耳を澄ませる。変化し続ける目の前の風景の、ただ一点に集中する。たっぷりと鉱物の粉を含んだシルバーマーカーの芯の先端。そこは全てが反転する矛盾の場所でもある。まるでそこ以外に生はないかのようなその一点、その瞬間に止まりながら、どこまで遠くへ掘り進められるか。

それは同時に、今ここから離れた遠くの場所で起こっていることや、今ではない過去の時間に起こったこと/これから先に起こり得ることにヴィヴィッドであろうとすることを意味する。日々のニュースが精神の底に鋭く重く沈殿する。でも、その痛みも掘り進むための原動力になっている。新しい方法で世界を把握するための別の言語を作るには、淡々と進めていくしかない。

マーカーの先から生まれた点が動き、線になる。上空から見た川のようだ。水面が光を乱反射している。近くに人影が見える。川辺で文字が発明され、新しい文明が始まった。一瞬、自分の子供の頃の記憶がチラつく。言葉を覚える前の記憶。さらに線は地層の奥へと進み、人間以外の世界、鉱物、惑星の記憶、そして未だ来ていない記憶を辿る。
全ての点と線の軌跡の集積が、光を反射して、網膜に残像を焼き付けていく。
シルバーのインクは、架空の銀塩写真の現像液なのかもしれない。それは過去ではなく、常に今を現像し続ける。

at MO.CO. Panacee (Montpellier, France) photo by Reno Leplat-Torti


at Galerie Chantier Boite Noir (Montpellier, France)




2019/03/22

傾斜の話/輪郭線を思い出す

still from "Recollection of the Contours", single channel video, 16min 31sec(loop)
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僕の最初の記憶はたぶん、坂道の光景である。それを思うようになったのは最近のことだ。
昨年末に引っ越してきた新しいスタジオの裏手が急勾配な坂道になっていて、そこを下り切ると谷底に湧き水がある。住所は一応東京なのだが、野生のクレソンが生えていて、沢蟹や、蛇や、シラサギがそこらを歩いていたりもする。最近は、制作に煮詰まった時などはこの谷に下りて、散歩したりスケッチしたりして過ごすことが多い。
先日の午後に、いつものようにこの坂道を下りていた時に、突然、2歳まで住んでいた仙台の自宅の前の長い坂道の光景がふと浮かんで、しばらく立ち止まってしまった。道の両側に小さな家が立ち並ぶ、何の変哲もない住宅地の光景。ブロック塀、植え込みや、電信柱を、低い目線で見ていた。ずっと忘れていた、38年ほど前の午後に全く別の坂道で見た午後3時くらいの強い光が、そのままの温度や湿度を伴って今の体内の奥の方のスクリーンにくっきりと映し出され、自分でも驚いた。

例えばニューヨークや京都のような平坦な都市の中心地に居る時、自分の居場所が分からなくて不安になることがあった。通りの名前を覚えたり、Google Mapsを見ることでそれは解決されるのだが。逆に、坂道の多い都市を歩き回る時は、地図や文字情報がなくとも位置関係を把握しやすい。どの店がどこにあり、ここから行くにはどれくらいの距離と時間を要するのかを直感的に想像できる。荒川修作+マドリン・ギンズの「養老天命反転地」ではないが、坂道というものは身体感覚と記憶を覚醒させる装置なのだろう。実際に、坂道を登ったり下りたりする時には、平地では忘れていた、何か自分の身体の深い部分と向き合うような感覚が生じる。身体の底に眠っていた記憶が引っ張り出されて、現在に刻印されるというのもあり得る話であろう。

おそらく、トリガーになっているのは「摩擦」だ。傾斜と重力によって、地面と足裏の接地点には摩擦が発生する。つまり平地では起こり得ない双方向的なベクトルが生まれる。それは地中から上がってきて身体の内側へ潜っていこうとする力学と、身体から下に向かって地中深くへと潜っていこうとする力学の二つの拮抗である。この二つのベクトルの緊張状態が、場所と身体の記憶を引き出し、結びつけるのかもしれない。この引き出し合いの構造は、描くこと/書くことの起源である、対象を引っ掻いて痕跡を残すという行為の中で働いている双方向的な力学とも通じる。やはり歩くことは、描くことにも書くことにも似ている。

さて、昨年の初夏、両親共に東北人である自分のルーツへの関心から、北海道と東北各地に点在する、主に縄文時代に作られたストーンサークル(環状列石)の調査を行ない、写真・ドローイング・テキストで記録した。ストーンサークルの付近には、住居の遺跡や貝塚や洞窟壁画といった文明の痕跡がしばしば存在する。面白いのは、青森の小牧野遺跡や北海道の西崎山環状列石・北黄金貝塚のように、それらの多くは見晴らしと水はけの良い、遠く海を望んだ斜面に作られているという事実だ。彼らは、やはり坂道を選んで生活や祭祀の拠点を作ったのである。
僕はとにかく古い書物を読むように、レコードを再生するように、ストーンサークルの周りの斜面をぐるぐると歩き回りながら、石の配置と輪郭を見て、その図形を身体に刻み込んでいた。それは個人の記憶を超えた、ある普遍的な記憶を通して、自分自身の輪郭を再発見するような時間でもあった。

さて今回、生まれ故郷である仙台の宮城県美術館で初めて展示をする機会をいただいた。この美術館自体が斜面に建てられている。自分が2歳まで住んでいた、まぎれもない、八木山の斜面である。そこで、昨年の環状列石のフィールドワークを思い出しながら、ささやかな映像作品を制作した。書画カメラの下に白いロール紙を設置し、その上に小石を配置してジャラジャラと動かしたり、マーカーで点や線を描き加え、ロール紙を引っ張りながらライブで録画していったのだが、僕は手元ではなくスタジオの壁にプロジェクターで投影された画面の方を常に見ながら行為した。画面を反転しコントラストを最大にすることで、白紙だった背景は闇となり、石はほぼ輪郭だけを残してただの白い光となる。光の粒に手で直に触れて配置・操作するような感覚の中で、記憶とは光跡なのだと思った。

記憶は新しく生まれたり、変形もする。僕は古いものを懐かしむのではなく、そこにある線をよく見て、辿ったり、なぞったり、引き伸ばしたり、時にはそこになかった点を加えてみたりすることで、時間と空間のレイヤーを行き来する新しい回路を発掘したいと思っている。

still from "Recollection of the Contours", single channel video, 16min 31sec(loop)


still from "Recollection of the Contours", single channel video, 16min 31sec(loop)


still from "Recollection of the Contours", single channel video, 16min 31sec(loop)