2011/03/17

一週間後

さて家の前の桜の木が咲き始めた。いいなー。あたまイカレそうな満開の桜も嫌いじゃないけど、おれはこれくらいの方が好きだなー。何かが宿り、ゆっくりと時間をかけて内側に生命力を湛え、これからグイングインに広がろうとしている、まさにあたらしい表現が始まろうとしている姿。この桜も、じぶんの一部だ、と思った。

今日は普通に東京の作業場で絵を描いていた。余震のたびに、何かが内側で静かにはじけ続けていた。いくつかのチャリティーの誘いは今のところ断らせてもらっている。できる範囲で寄付をしたり、それぞれに意義のある活動の応援はしたいけど、じぶんの絵で直接的に何かを訴えたり、今困っている誰かを救おうとはどうしても思えなかったから。

「見る」ことが対象を内側に宿す行為だとしたら、地続きに「描く」という行為があって、それは何かを外の世界に「発する」ための方法だけではない。もちろん描くことは目の前の現実に働きかけるアクションであって、現実を変形させたり、そこに何かあかしのようなものを刻むことでもある。でもそれと同時に、描くってことは、みずからの肉体を通して、外部の環境を「内在化する」プロセスだ。時には膨大な歴史や、日常の些細なコトや、いま起こっているような破壊的な外部の環境さえも内面に取り込むことになる。そういった遠心力と求心力のタフなフィードバックがあってこそ、描き続けることができる。

だから、求心力を強めることで、遠心力が高まるということもある。行く手に立ちはだかる難題の前で不安になったり足踏みしているときこそ、壁の向こう側よりも足下に意識を集中し、掘ってみる。とことんフィジカルにやる。手で直に紙に触れ、線を描いたり消したりしながら、あぁここはもうちょっとボテッとした感じでいくか、とか、ここはこうで、こうするとこうなったからこう、とか、そういうきわめて具体的なことを高速で選択し、判断し、手足とニューロンを使って進める。そこにいちいち納得しているヒマはないし、傑作をつくろうとかしているわけじゃない。ただそういうカンジで、集中して絵を描く時間の中で、なにか内側の核心に触れる瞬間がくる。それは何にも代え難いよろこびでもある。そこまでいけば、それが別の位相での確信につながっていき、外部で起こっていることがよくわかるようになる。目の前を塞ぐぶ厚い壁に入っている小さな亀裂を見つけられる。いつの間にか壁の向こう側に立っていたりすることもある。

たぶん、おれは人が言葉を使って考えるのと同じように、線を描くという行為で包括的にものを考えているんだと思う。じぶんの思考に、濃密な身体性とか物質性が入ってくることで、いま起こっていること、置かれている環境への密度がグッと出てくるのだと思う。しかし、もともと人類史におけるドローイングとは、そうして始まったものではないか。特に洞窟画は、想像を絶するような寒さと飢えと外敵からの危険や恐怖の中で生き続けるための、総体的な祈りではなかったのか。

もちろん全てがいつも必ずうまくいくワケじゃない。限られた時間と空間の中でどこまで掘り進められるか、どこまで世界の複雑さを内面化できるか。じぶんにとっては今だけじゃなく、「描く」ことはいつも、そういうことに他ならない。希望を描くのではなく、描くことそのものが希望である状態にあり続けたい。

すべての被災者の方々、救助と復興に関わる方々、何か行動をしなければと焦っているひと、放射能を浴び続けているひと、情報に翻弄されて不安になっているひと、悩みながらも避難することを決意したひと、コンビニで「トレーニング中」の名札をつけながら一生懸命にレジを打っているひと、みんなじぶんの一部だ、と思う。勝手ながら、じぶんもあなた方の一部でありたい。少しでも状況がよくなることを願っています。