And place is always and only place
And what is actual is actual only for one time
And only for one place"
—T. S. Eliot, Ash Wednesday (1930)
熱いインドで毎日インドカレーを食べる(当たり前)生活から、外にジュースを出しておくとシャーベットが作れることで有名なベルリンに戻った。もう6日後にはロンドンに居る予定なんだけど。
昨日は僕が尊敬するアーティストの中原一樹くんと一緒に土管を買いに行ったり、美術館のオープニングに行ったり、ケバブを食ったりと、晩冬のベルリンはそれはそれでせわしないんだけれど、今朝は久々に最近のことを少し振り返ってみたりしていた。たぶんそれが少しだけ必要だったから。
まあ、この数年は移動ばかりではあったが、特にここ最近は移動が続いたので。この一ヶ月ちょっとだけでも、乗り継ぎ合わせて合計15回ほど飛行機に乗っていた。なんだかなあ。でも、いわゆるアチコチ旅をしているという感じがしないのは、ひとつは帰り道っていうのが何なのか実は全然分からなくて、文字通り次にやることに向かっていく道でしかないのと、あとはずっと何かしら絵を描いていたからだと思う。どこでも、描きまくっていた。パリで深夜に鴨を焼きながら早朝の空港に向かう直前まで絵を描いていたり、金沢21世紀美術館の10時間ライブでは360mぶんの絵を描いて全部廃棄したり、東京のバーで描いたり、インドの2週間でロール紙40本描いて最後の朝に全部燃やしたり。もちろんベルリンでも、一人で描いたり、誰かとセッションしたり。
アトリエ内よりも外で、また、地面で描くことが多かった。フィールド・レコーディングのように、フィールド・ドローイングをしていたという感じで、何かずっと、移り変わって行くその場や時間そのものを記録しようとしていた気もする。記録というより、"記述"と言った方が近いかもしれないが。こういう記録/記述はたまに様々な形で残ったり、基本的には残らなかったりするけれど、僕自身や見てくれた人の体内の記憶に、文字になる前の文字、カタチになる前のカタチとして刻まれていたらそれでいい。
なんというか、世間的には、絵を描く人はアトリエ内に籠って描く、というイメージがあると思うけど、僕は元々どちらかと言うとアウトドア派というか、ずっと内と外との境界や、行ったり来たりの動きそのものを作品にしてきた気がする。何かを描くためにはもちろん場所と時間が必要だけれども、描くことによってはじめて生まれてくる場や時間というものがあるので。同じ場所に戻ってきた時には違う時間が流れているし、同じ時間には別の場所で何かが起こっている。"今ここ"に関わるということは、違う場所や時間のことを想像するのと同じことだったりする。
僕にとっては"描くこと"が単にアウトプットではなくて、外部の環境を翻訳して内面へインプットする行為でもあり、内からの表現(expression)が、同時に外からの感覚の刻印(impression)であるということを、よく思う。僕は、引き出しの底が抜けている。内と外の円環構造が成立しているときにだけ、ああ描いているなあ、と思える。そうじゃなかったらきっとアウトプットすべき内面の源が尽きて、自分の描く線に酔ってみたりとか、似たようなスタイルを繰り返したり、何か新しい引き出しを探しちゃったりするんじゃないかな。そうなってしまったら、それは僕の作品ではない。
正直いま"表したいアイディア"みたいなものは特にないし、移動するからと言ってどこか最終的な目的地に向かっているわけじゃない。もっと遠くに架空の星座を作るように、架空の言語でラップをするように、何かと何かの間に線を引いたり点を打って、新しい回路を作っていきたいだけなのだ。だから、あまり好きじゃないけど、フィジカルな旅をせざるを得ないんだろう。現場を移動することは、精神の地図上に軌跡を残す、つまりドローイングすることそのものでもある。移動すればするほど、回路が交差する密度が少しずつ上がっていく。そうして全く別の場所や時間からつながる回路が交差したポイントに、音楽のように、一定時間だけ、特別な場所のようなものが生まれる。
たまに一つひとつの記憶の回路を辿ってみると、細部ばかりがくっきりと、闇の中で明滅する交通標識のように次々と浮かんでは消えるばかりで、いつも最終的な全体像が見えないし、見ないようにしている。
ここ最近描いた何百枚という絵の細部はけっこう体で覚えていて、別の絵を描いているときにふと蘇ってきたりもする。でも絵自体のことだけじゃなくて、例えばジャングルでシャンディという16歳の少年が木に登って取ってきてくれたオレンジの花の蜜の味とか、吹雪の美術館の中庭で植野隆司さんが弾いていたギターの妙に金属的な音、一緒に服を作ったコムデギャルソンのショーのあとに話しかけてくれた川久保玲さんの黒い目や、ホコリ舞う狭い部屋で一緒に寝泊まりしていた遠藤一郎くんの荷物の配置なんかの断片がランダムに、後頭部あたりにあるチューブ型のスクリーンに投影されて、0.5秒くらいで次の像にモーフィングしていくような感じだ。
最近は、そうしてこれまで作ってきたたくさんの回路が、地中のアリの巣の断面図ように、あるいは地下鉄マップのように、複雑に交差して、どこかにあるようでどこにもない空想都市の交通網のようなものが段々とカタチづくられているような気もする。
背景にはここ数年ずっと脳内に鳴り響いていたアーサー・ラッセルの音が消えて、なぜかもっと昔に好きで聞いていたAphex Twinの音楽が小さく鳴っている。何か、それがこの空想都市の街頭スピーカーから流れる原始的な民族音楽のように聞こえ始めている。これまでとは別の次元で、統合が始まっているのかもしれない。
そういえば先月パリでアニエスベーに会って、40枚の絵を渡したときにこんなことを言われた。
「8年前に初めてあなたの絵を見たときは、全くカタチになってなかった。」って。
「でも去年NYのスタジオで見たとき、あなたの絵がギリギリのところまでカタチに近づいてるように感じた。まるで偶然、道で拾った立体物みたいに。でもあなたはその手前で留まって、決してカタチそのものにはしないのよね。」って言ってた。
イタロ・カルヴィーノの小説 ”見えない都市”の中で、世界を旅したマルコ・ポーロが、皇帝であるフビライ汗に、ジルマという実在しない都市について報告する一説が、僕の頭に浮かんだ。
「記憶はまこと満ちあふれんばかりでございます。都市が存在し始めるようにと、記憶が記号を繰り返しているからでございます。」
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川久保玲さんとの3度目のコラボレーション(パリ)
collaboration with Rei Kawakubo, COMME des GARÇONS SHIRT A/W 2013, Paris |
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回転するチューブ(東京)
the spinning tube at night, Tokyo |
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フイの家の壁 (トーレスヴェドラス)
improvisation on the wall at Rui's house, Torres Vedras |